目に見えるものにどれだけ目に見えないものが宿っているか

死神の鎌のようにメッタ斬り(笑)
そっ、そうかなああ。

先日、アニマルヒーリングスクールの校長と熊谷先生、そして生徒さんと一緒にメッタ斬り会、いや違うぶっちゃけ会なるものに行ってきました。

翌日仕事だったので、乾杯のビールのあとは烏龍茶だったのでほとんどしらふだったのもあるのかもしれないけれど全然フォローできず。。。

熊谷先生が居てくださってよかったです(ほっ)。

いまでこそ、スピ業界ともお別れしヒーリングサロンの看板を下ろした私ですが目に見えることも触れることもできない世界があることは大前提として現実を生きています。

なぜなら、この世界は反射の世界だと思っているし、相反するものがなければ存在できない世界だと認識しているからです。

たとえばいま目の前にあるペットボトルにだって、この世界に存在するためには大きな力が必要であり、ペットボトルの材料としてまだペットボトルの形になっていない時から時間や工程を得てたくさんのエネルギーが集結してペットボトルになりますよね。

目に見えるものにどれだけ目に見えないものが宿っているかは、人の身体も同じで、それが意識できるようになったときに、目に見えないものを追いかける必要がないなと感じました。

でも、目に見えないものは存在するし、それを感じることもある。ただそういった部分と対話をするには観察や集中が必要なんだなあということも先日の絵画合宿で実感したこと。

絵描きは1日中1本の木を観察する。そこから木との対話が始まる。
木が語ったり、木の中に自分が取り込まれたり、木の温度を感じる。

でもそれは私たちに目があって、しっかりと木を見つめ存在を捉えることができるからこそ生まれる対話。
見ることではなく触れるでもいい。1日中木に手を触れていたらきっと何かが伝わってくる。

1日中観察を続け自分と木の境界線を越えたところで伝わってくるものは、いわゆる直感やチャネリングと言われるものとは全く違うものになると思う。

その多くが記憶との照らし合わせでしかないですしね。

木から伝ってくるもの。
たぶん、それは言葉に表すことのできないとても懐かしいもので、自分の一部として存在しているものとして認識できるのだと思う。

目に見えない世界とコンタクトしたい気持ちはわかるし、実際私もそうだった。特別なものと自分がつながることで自分を特別な存在として認めたかったのもあるけれど、それは現実世界で努力したくないという私の逃げだったことをいまは認めています。

目に見えない「ヒーリング」という不思議な力があれば、誰かを救える。でも、本当のところは誰かを救うことで自分が救われたかったというのが根本の願いでした。

ヒーリングは必要なもの。
でも特別な力なんて何1ついらない。

多くの人が望んでいるのは「ヒーリング」ではなく「サイキック能力」。
エネルギーを操れるようになって、その先に何を目指しているのかな。

 

ただ最近はそういった問いかけもなくなるくらい興味がなくなってしまい自分にできることをせっせと積み重ねていく日々です。

一時期は善悪に捕らわれて大変だったけど、いまは必要なエネルギーは必要なものに注ぎたいとしか思わなくなってしまった。

古い自分の価値観もいらないのです。

冷たい人間だと言われても、どう思われても、それよりも大切なものを守り育てていきたいと思う。

ではでは。